やたさんを生涯支えた女性
すがえさん
愛称やたさんこと「宮崎弥太郎」さんは
川漁が大好きな、全国でも有名な越知町の川漁師さんでした。
あの「黒笹慈幾」さんや、作家の「かくまつとむ」さんとも親しく、越知町に訪れた際は獲れた川魚やツガニ汁を一緒に食べるなどの交流もある。
Be-pal books
仁淀川漁師秘伝―弥太さん自慢ばなし
黒笹さんが当時、小学館の編集長だった時に出版された。
当時の高知県知事 橋本大二郎さんとの対談もあり
この本をきっかけに、弥太郎さんの漁を見てみたいと全国からファンが訪れる事もあったそう。
そんな弥太郎さんを生涯支えた妻である「菅江(すがえ)」さんにスポットを当てた。
―美貴― いつ頃から一緒に漁に出られてたんですか?
―菅江さん― 昭和33年に嫁いでからずっと、川漁は自然と好きになったけど、苦労したがよ。
火ぶり漁やったき、夜中に小浜に出て、弥太郎さんが舟を漕いで私が網を落としよったがよ。
お父さんは獲れだしたら夢中になってやるき、ニワトリが夜明けを告げるまでやりよったが…
―美貴― えーーーーー!!!徹夜??いつ寝られるんですか?
―菅江さん― 朝の市場に出す時の移動中だけ
―美貴― ほ・・ほんまにお疲れ様です!!!!
―美貴― 大変だったことはどんな事ですか?
―菅江さん― 夜やったき、暗いろ?深い所もあるろ?ほんで、そこに網を落とすのが怖かった。
ほんで網から魚を出す時に、鮎だけやなくて、雑魚もいっぱいおったが。中でも外来種のグーグーはトゲがあっていつも手が血だらけになって取りよったがね。踏んだら靴の底をも突き破るき、お手伝いに来てくれゆう人らが踏んだら危ないやろ?
ほんで、うちの人の漁を見に来てくれる人もおったき、お手伝いさんと観客の方に毎回、夜食に、おむすびを握っていっとたがよ。川漁師のお母さんはみんな苦労しゆうがよ。
―美貴― !!そんな大変な思いをされて、一緒に漁に行かれていたんですね(涙)本当に、お疲れ様です。
―美貴― 漁を見に来られる方もいらっしゃったんだ!有名人ですね!
―菅江さん― 「かくまつとむ」さん著書の本を見て何人も会いに来てくれたり、有名人や取材も何度も来て、まいう〜の「石塚」さんが来た時は、うなぎを獲って、蒲焼きにして食べさせよった。
お父さんは「とりたい、みせたい、たべさせたい」で、みんなを喜ばす事が大好きやったきね。獲ってよく振る舞いよったが。
―美貴― そんな漁が大好きだったお父さんをずっと、隣で支えてたんですね。
エピソードなんかありますか?
―菅江さん― もう、私が夜も眠れんかったことがあってね、以前、店にお父さんの漁の場所を訪ねてきた人がおってね、私らの店は人のたまり場やったき、町外の人もその時おったが、その人に旅の方が漁の場所を訪ねたら、ひどい言い方したそうなんよ。その晩眠れんづく、次の日小浜までその旅の方を探しに行って謝りに言ったがよ。せっかく来てくれたのに嫌な思い出にしてほしくない一心で…
―美貴― なんて優しいお母さん…(涙)きっとその旅人さんも、心癒されたと思います。
現に今、私は凄く癒されてます…漁をしていて、楽しかったことはなんですか?
―菅江さん― うなぎを獲った時、捌いて、焼いて、手作りのタレをつけてみんなで食べよったこと。向かいの家の親戚の子とも、一緒にうなぎを獲りに行って、今でもシーズンは獲りに行きゆうがと思うで。
―美貴― そうなんですねー!獲りたてのうなぎたべてみたいぃー!
やたさんはいつ頃まで漁をしとったんですか?
―菅江さん―そうやねぇ、67か68くらいやろか。体を悪うして入院ちょった時
も帰ってきちゃ、漁に行きよったきねぇ。
ーー偲ばれながら73歳で川漁師の幕を閉じたやたさんだが、生きちょったら夢があったそう‥
―菅江さん―家の前に、仁淀川の魚を集めて水槽に入れて子どもらぁに見せて喜ぶ姿が見たいってね。
…という感じで、お話を聞かせていただきました。
突然の訪問だったのに、快く迎えて下さりありがとうございました。
菅江さんをはじめ越知町の人はみんな、本当に優しくてあたたかい人ばかりで、改めて越知町に来てほんまに良かったーーーと思う瞬間でした♪
ご協力ありがとうございました!
越知町役場 企画課
地域おこし協力隊 尾方美貴